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共同体 -Estar-

「小さな遺言として 森司教」 全国修道女研修会へ行ってまいりました。

2018年5月26日 | CATEGORY - 共同体

感謝

 

タイトルに込められた意味は、「もう最後だから遠慮なくお話させていただく」という意味が込められています。

シスターたちへ①自信を持ってもらいたい②チャレンジ精神を持ってもらいたいという気持ちがある。

 

高齢化によって愛の火がくすぶっているという気持ちがあると思います。それを直視してその火を燃え上がらせるために、まずは感謝! 

 

日本の教会の中で、社会はシスターたちに感謝していると思う。競争社会ではシスターたちの存在にほっとする。打算も損得も超えて出会う存在・事業という在り方は日本社会に証になってきた事はひとつの事実。

 

小教区の教会だけでは力がない。幼稚園・学校で人々と出会う数は小教区の司祭が出会う人々の数とは比較にならないという事実。日本の教会にシスターたちがいなくなったらどうなるか…?大きな問題。修道女の存在は大切であるという事実。

 

ただしシスターたちが人々と向き合う時に、人々の問題に具体的な応えを出すことが出来ない。(人々の内面的な問題。)具体的な解決は専門家。私たちが貢献できることはなにか?健康・能力(to doの世界)ではなく、その場に愛を息吹かせること。Beingを抱きしめる。一般社会が表現でき無いことを聖職者が示そうとしてきたこと。人々が聖職者に愛に来た場合、具体的な解決は求めていないかもしれない。ただほっとしにきているのかもしてない。キリシタン時代に聖職者に引き寄せられたのは、彼らの人格の温かさだったのではないか。

 

聖職者の役割は「止まり木」といえるかもしれない。厳しい人生を歩まなければならないのはひとりひとり、しかし出会いは心に残る。キリストの十字架があの時代に具体的に何かを変えたというわけではない。しかしイエスの存在が人々の心に残っていった。それはキリストの生涯の温かさだったのではないか。心が響き合うという事が私たちの根本的な価値。

 

現代社会に生きている人の生き様を深く理解する。ある研修会で未信者の方から「結婚しないで人の苦しみがわかりますか?」という質問があった。一般社会の人々がどれだけ家族のために努力し、子どものためにもがいているか!聖職者はわからない。第二バチカン公会議前までは社会に対して、家族に対して上から目線で語ってきた。指導しようとしてきた。フランシスコ教皇は「共感する。寄り添う。」を強調している。「福音をいきましょう」という美しい言葉で済ますことが出来ない複雑さがある。信徒には信徒の生き方があるという、発想の転換が必要。傷を負った人たちに対して「べき論」で対応するのではなく、キリストの温かさでもって共感する。信徒の霊性。社会の中で生きていく霊性があることを理解する。もっともっと世間を生きている人に共感する能力をつけていくことによって、フランスシスコ教皇の路線を生きていくことができるようになる。

 

聖職者同志だと心の底から語る事が出来る。心が響き合う事が出来る。お互いにプラス。

「この大祭司は私たちの弱さに同情できない方ではなく罪をおかされなかったがあらゆる点において私たちと同様に試練に遭われたのです。」

教会の現状と不安

 

・「イエスを外に出さない教会は、病気だ!」フランシスコ教皇

教皇になる前の言葉、もうヨーロッパの教皇ではしがらみが多すぎるので難しかったのではないか。自己中心的な教会。教会のおしえ、教義の枠の中で人と交わろうとしている。それを病気だといっている。人はどんどん離れていく。人々の生きた心に届かない。

掟と教義が中心となった教会とは教会分裂(メディチ家との関係、免罪符の問題)の後だった。その後の綱紀粛正のために厳しい教えを作っていった。(①神学院制度の確立。②カトリック要理をまとめた。16世紀17世紀に聖人が多い)教会の護教的な体質。(私たち信者のDNAに組み込まれているのは確か。自分たちが色々なものを引きずっているのはたしか。)(トリエント会議)

近代社会の毒=(自由、科学、資本主義経済)から守る城壁として

聖職者、王=神から召されている。という考え方。神様に近づくためには自分の自由をすてて、従順を強調している。ガリレオの自然科学の真理も信仰を脅かす。霊的な解決を示していった。近代社会の営みを理解できない歩みを始めてしまった。それまでの教会は各国が独自に動いていた。世界各国がまとまって近代社会へ対処していった。(中央集権的)教皇がそれぞれの国の神学院の一つをローマに置くようになった。修道会の本部をローマへ置くようにした。検邪聖省(チェック機能、ブラックリスト)現実を見つめるのではなく、伝統を受けついてそれを守っていくという事が中心になった。現代の問題に無能になってしまった教会(第二次世界大戦で力を発揮できなかった。)これらの限界をフランシスコ教皇ははっきりつかんでいる。

ヨハネス23世「地上に平和を」→「世界の善意の人々へ」という呼びかけ。←新しかった。世界の平和に関してはどんなイデオロギーの人々とでも一緒に道を探していく事が出来る。

 

・「教会は疲れている」カルロ・マルティーニ枢機卿

 

一番共感できるのは神父たち。深い孤独感。自分がいくら説教しても響いてくるものはない。後継者がいない。「うつてがない」これは司祭たちの問題なのかどうなのか?今の司祭たちが受けた養成は「導く」養成。現教皇が言っている「人々の中に飛び込む」という教育はなされていない。社会の動きはより便利で刺激的。伝統的な価値観がまだ強い。養成とチャレンジ。

 

フランシスコ教皇を理解するためには、神理解の大転換が必要。神は導くという発想はない。人々の中に飛び込んでいくんだよ。神の憐みは私たちへの責務「私たちが喜びと平和に満たされることを望んでいる」(フランシスコ教皇)「愛の応答を失えば、そこで告げられているのは福音ではなく、特定のイデオロギーに由来する教理的・倫理的な主張なのです。そのときメッセージは新鮮さを失い、「福音の香り」も消えてしまう危険にさらされるのです。」神の本質は憐みであるから、すべての教会の行動はそこに基礎をおくべきではないか。

・人々と向き合う

 

私たちのチャレンジ

 

自分が受けてきた養成から脱皮するのはとても難しいこと。しかし福音の真実を追い求めるためにそこから脱皮しようとする事はひとつのチャレンジ。50年後100年後の事を考えながら、お互いを忍耐しながらチャレンジしていく。

 

「呼ばれた」は、聖職者・修道者の身分の根拠として、相応しいのか?

 

たとえば福音書の、「体を売っている女性」の心の中に入ってみる。色々な複雑な事情・不幸な背景・悲しい人生がある。女性として体を売って生きていくという事に肯定できるか?自分を咎める気持ちがないか?周囲から蔑まれる。男性の寂しさ、やりきれなさを感じる。自分の中にも、人々の中にも、神の前にも居場所がない。そんな時に、イエスと出会うとそのあたたかさに、喜びの涙を流す。追っかけの心理に近い。自分の中に飢え乾きがあって、そこに何かがあると思っておっかけた。そう言う言葉の方が共感しやすい。「呼ばれた」だと距離が出来てしまう。

 

福音的原点の上に修道生活を植え付けなおしてみる。

今までだとto doの中から宣教で来ていたが、高齢化してもbeingの世界で宣教して行くことが出来る。地域に開かれて、共感していく事が出来る。

 

具体的なテーマで対応する。使徒的事業。会社などでセクハラ、パワハラ、などで傷ついた若い女性を結構いる。彼女らは何かを探しているがどうしていいのかわからない。今の若い女性はルールとか決まりは通用しない。こちらの忍耐が試される。今までのやり方で引っ張ろうとすると距離が出来る。修道院の空間を利用して若い人にいやしの体験をしてもらう。身近でいのちが響き合うという体験。